だって、そうでしょう?

推しの一番になりたいだけ

同担に負けたという感情

こんばんは。さいとうです。

 

もうすぐ2月ですね。ついこの間、年を越したと思っていたのに、もうひと月が過ぎるだなんて、本当に時間の経過はあっという間です。そしてその2月は、大好きな推しの舞台が上演される月でもあります。推しはしばらく舞台が無いと言っていたので、発表された瞬間「これは嬉しい誤算」と言わんばかりに行ける限りの日程を予約しました。

ただ、残念な事に他ジャンルの現場が既に決まっていたので、その日に限っては泣く泣く諦めました…。

 

それでも全体の2/3は通えるし、満足満足!と思っていたのですが。先日同担のTwitterを覗いた際(改めて書いておくと、私は同担のTwitter監視する勢です)、私よりも多く予約をしていることが分かり、大変憂鬱な気持ちです。そして私はこう思いました。「同担に負けるなんて許せない」。

「負けた」という感情は何なんでしょうね。推しを観るために通っているはずなのに、いつの間にか推しに「勝つ」ためにチケットを増やしてしまう。何が何でも同担に勝ちたい、優位に立ちたい。そのためには、お金という指標が最も分かりやすいから、無理をしてでもチケットを増やす。そうして、「チケットを増やす」という手段はそのままに、いつの間にか目的だけが「推しを観たい」から「同担に勝ちたい」にすり替わってしまっている。

 

何とも本末転倒なことだと思います。推しに勝ちたいからチケットを増やす。推しに勝ちたいからスタンド花を出す。推しに勝ちたいから差し入れをする。推しに勝ちたいから身を滅ぼしてまで推しに貢ぐ。推しに勝ちたいからお金を積む。自分の生活を疎かにしてでも、ただ同担より優位に立ちたいが為に、お金を積み続ける。

そんな事止めればいいのに。マウントを取るなんてみっともない。と、多くの人は言うでしょう。私も自分に対して思いますよ。でもね、止められないんです。これが精神的に健康ではない状態と分かっていますし、一種の自傷行為に近いものと分かっています。分かった上でやっているんです。そうしないと、私のメンタルはもっと落ちてしまう。同担に勝ちたい、推しの一番になりたい、という感情がなければ、私はもはや人の形をしていないでしょう。人としての生活も送れていないでしょう。

 

推しを推す事で、病むのも事実。推しを推す事で、心が晴れるのも事実。推しの一番になりたいと思ってしまった以上、同担と比べてしまう道を避けては通れないのです。下世話な言い方ですが、お金を多く落とした人間が誰よりも偉いと思っているので、同担よりもお金を落とすファンになりたい。そうすれば推しが認めてくれるんじゃないか、という幻想を抱いているだけなんですけどね。

 

ただ、同担よりも可愛いと思われたいから自分にもお金を掛けるようになったのは、ある種プラスな部分かもしれません。もちろん絶対に公言できませんが、比較対象が居るからこそ、自分の立ち居振る舞いを省みることができるのは、同担に感謝しなければと思います。ごめんなさい、貴女の事は同担というだけで大嫌いだけど、でも貴女が居てくれるからこそ、私はまだまだ努力をしなければと思います。

 

来月の舞台は、これ以上無理をしてチケットを増やすことはやめようと思います。自制できた自分を自分で褒めてあげたい。その代わり、その限られた回数の中で推しにとって「いいファンだな」と思わせられるように努力しようと思います。そして、いつか「同担に勝たなければ」という呪いから解き放たれればいいのにと思ったり。けれど、それはきっと、推しの一番になれたと確信した時以外無いんでしょうね。そうしている内に新たな同担が現れて、私はまた同じことを繰り返してしまうのかもしれません。病まないために、病んでしまう。