だって、そうでしょう?

推しの一番になりたいだけ

推しを推すという事

はじめまして、こんばんは。さいとうです。

2本ほど記事をアップしていたのですが、その内容がどうにもしっくりこず。そこで一度仕切り直し、本日から新しくブログを始めようと思った所存です。

 

このブログでは、推しのことを中心に、自由気ままに好きなものの話や、なかなか表では書けない話などを書き連ねていこうと思っています。というのも、タイトルの通り「推しを推す」という事はこの上なく楽しい時間を過ごせる反面、どうしようもなく虚しく、辛く、時に他人に嫉妬し自己嫌悪するという、負のサイクルに陥るものだと実感することが多くなったからです。

 

私の推しは小劇場を中心に活動する舞台俳優で、役者としても人としても大好きな存在です。推しを推すようになって、かれこれもう約3年ほど経ちますが、初めのころは一度観れば満足していたものが、二度になり。二度の観劇が、三度になり。三度の観劇が…という風に、気付くと複数回通う事が当たり前になっていました。

推しの演技が好きで彼を推すようになったので、何度通っても飽きる事はありません。その時間は本当に楽しくて仕方がないのです。けれどその一方で、お金を落とす額が上がるに連れ、何とも言えないネガティブな気持ちが強くなっていくことも感じました。

 

例えば、推しに新しいファンが付いた時の事。SNSなどで、「今回の舞台で推しさんの事を初めて見てファンになりました!」というようなリプライを見かけると、嬉しくて仕方がなくなります。推しの演技を好きと言ってくれる人がいる、推しのことを好きだと言ってくれる人がいる。それだけで、私までどこか誇らしい気持ちになるのです。もっと推しのことを知ってください、もっと推しの演技を見てください。こんな役や、こんな作品にも出ていたし、次はこういう作品にも出るんですよ!と声を上げたくなります。推しのことを一人でも多くの人に知ってほしい、推しの演技を一人でも多くの人に見てほしい。それは嘘ではありません。

 

けれど一方で、私よりも後にファンになった同担が馴れ馴れしいリプライなどを送っていると、どうしようもなく嫌な気持ちになります。それは個人の自由ですし、それに返信をするのも推しの自由。でも、私よりも舞台に通っていないのにどうして?という気持ちが拭えないのです。私よりも後から来て、私よりも一つの作品にお金を落としていないのに、どうしてそんな風に馴れ馴れしくできるの?私は3年という時間を掛けてようやく推しとの丁度よい関係性を築いてきたのに、あなたはどうしてこの僅か数か月でそんなにも推しの近くに行こうとするの?と。

 

ファンが私だけでは、推しは活動を続けられないという事は分かっています。一人のファンが一万円を落とすのと、十人のファンが千円ずつ落とすのとでは、後者のほうが意味があるに決まっています。けれど、そのたった千円を落としただけで推しと同じ位置に立とうとする同担が、とても嫌で嫌で仕方がないのです。

それならお前も、他の同担のようにすればいい。私自身もそう思います。けれど出来るわけがない。だって推しに嫌われたくないから。私はこの3年、ずっと理解のあるファンを演じてきました。無意味なリプライは飛ばさず、馴れ馴れしく話しかけることはせず、面会中に他の同担が居ることに気付けば「私は明日も居ますから」と身を引き、何も言わず舞台には通い続ける。それでようやく、いまの絶妙な距離感に居ることが許されているのです。

だから、絶対に嫌われたくない。他の同担の行動力が羨ましくて仕方ないけど、私は私自身が一番かわいいので、それを真似ることも、積極的になることもせず、ただ陰から妬んでいるだけ。そしてフッと、そんな自分が嫌になるのです。

 

最初はもっと何も考えずに推しを推せていたはずなのに、いつの間にか他と比べるようになってしまった。お金を掛ければ掛けるほど、同担に対しての嫉妬が強くなってしまう。そして、今ではどこか同担と競うために、同担に勝つために、一度でも多く通おうと無理をしている。他人から見たら、ひどく滑稽だと思います。私ですら思います。けれど、推しのことが好きだから。舞台に立っている推しが好きだから、それを止めることは出来ないんです。今より回数を減らすことも、嫌われることも。

私はリアコではないと思っています。多分、私が抱えているのは、もっと面倒くさい感情。推しの一番になりたい。推しに必要とされたい。恋人よりも妻よりも、さらに上の存在、推しにとっての唯一無二でありたい。その為には何だってする。そんなとても拗らせた感情。

 

推しの演技が好きで、推しが舞台に立っている姿が好きで、その姿を見るために劇場に通っているはずなのに。無理をして、時間とお金を削って、その先には何があるのだろうと、ふと不安になることも少なくありません。こんな生活を続けて、手元には残るのだろうと。けれどそんなことは考えたくないから、これからもそれを忘れるために推しを推し続けようと思います。